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浅田真央選手現役引退を発表。試練を乗り越え続けた努力の天才!

2017年4月10日、浅田真央選手が、現役引退を発表した

ソチオリンピック以降、いつかこの日がやってくると、覚悟はしていた。

特に、競技復帰してからは、浅田真央選手には、自分のためにスケートを続けて

もらいたかった。

それゆえ、引退するときも、彼女が辞めたいと思ったときに、辞められる状況であってほしいと願っていた。

このタイミングで、現役引退を発表できたということは、本人の意思が通ったということだと思う。

昨年の12月、全日本選手権で12位という結果に終わり、引退の時が近いのかもしれないと考えた。

12位という順位よりも、ジュニアの選手たちに追い抜かれていく状況を、どのように頭の中で整理していくのだろうと気になっていた。

一方で、あと1シーズンは、現役を続け、平昌をめざすというキビシイ道のりを選択するのかなとも期待を込めて思っていた。

そして、膝のケガさせよくなれば、全日本で優勝し、平昌オリンピック代表に選ばれることもありうると考えもした。

浅田真央選手なら、ありうることだ」と、最後まで人々に希望と夢を感じさせる選手であったことは、間違いない。

浅田真央選手が、シニアデビューした2006年、浅田選手には、神様が与えた勢いのようなものがあった。

他を圧倒する存在感が、風のようになって他の選手を押しのけていくようにも感じた。

グランプリシリーズで、浅田選手と同じ大会に出場した荒川静香さんが、「なんで真央ちゃんと2回も同じ大会なの?」

と、スケート連盟の人に訴えていたが、世界中のトップスケーターが、荒川さんと同じように、脅威を感じていたことは間違いない。

私が、大好きだったスケーター、当時の世界女王イリーナ・スルツカヤ(ロシア)に、

「Hi! I’MAO. I like your skate!」

と、無邪気に話しかけている姿に、「この子スゴイ大物だな」と驚いたものだ。

話しかけられているイリーナのほうは、顔が引きつっていたからだ。

「こんな子どもに負けたくない」と、言わんばかりだった。

このシーズンのトリノオリンピックには、浅田選手は、年齢制限に87日足りないため、出場できなかった。

タラレバにはなるが、出場できていたら、優勝していたと思う。

それほど、圧倒的な勢いが、このシーズンの浅田真央選手にはあったのだ。

これが、試練の多かった彼女の現役生活で、最初の試練ということになる。

浅田真央選手の現役生活を振り返ると、本当に試練の連続だったように思う。

専属コーチがいない状況が長く続き、一人で練習を続けなければならなかったこと。

お母さまの病気

バンクーバーオリンピック時の、報道の過熱ぶり。異常なほどの人々の期待。

一人で練習をし続けたゆえの、ジャンプの修正。

お母さまの死。

最後に間に合わなかったこと。どんなにツラかったでしょうか。

そして、その二週間後に全日本選手権に出場し、人前で涙を見せなかったこと。

肉親を亡くしたことのある方はわかると思うが、これは本当にツラいことだったと思う。

ソチのショートプログラムの失敗。

一人の若いアスリートが抱えるには、あまりにも重い試練だったのではないかと感じる。

それでも、フィギュアスケート人生の中で、何度も素晴らしい瞬間があったことは間違いない。

バンクーバーオリンピックでは銀メダルを獲得。

世界選手権では、3度も優勝している。

グランプリシリーズでは、ファイナルで4度優勝。シリーズ全7大会で優勝するという偉業も成し遂げている。

浅田真央選手のフィギュアスケート人生を振り返り、特に素晴らしいと思った瞬間を3つ挙げたいと思う。

一つ目は、20072008年のシーズンの世界選手権のフリー「幻想即興曲」の演技

このシーズン、浅田選手は、アメリカから日本に拠点を戻し、ラファエル・アルトゥニアンコーチとの契約を解消している。

のちに、アルトゥニアンコーチ自身が、語っているが、浅田選手のお母さまの体調が悪くなり、治療しなければならないため、アメリカの拠点から日本に帰らざる負えなかった、というのが真実のようだ。

当時は、アルトゥニアンコーチも、本当の事情を知らず、「面倒みきれない」と決別する形となってしまったことを、現在では悔やんでいる。

そんな、コーチ不在という状況下で挑んだ世界選手権。

SP2位につけ挑んだフリープログラム。

冒頭のトリプルアクセルのジャンプを飛ぼうとした瞬間、派手に転倒してしまった。

演技を中断してもおかしくないほどの、激しい転倒だった。

ジャッジの一人が、驚いて立ち上がったほどだ。

見ている私も驚いて、思わず「あっ!」と声を上げてしまった。

ところが、浅田選手は、何事もなかったように立ち上がり、その後の演技をほとんどミスなく完璧に滑りこなしてしまった

結果的にフリーの得点でカロリーナ・コストナー(イタリア)を逆転し、優勝した。

「なんという心の強さだろう!」と、感心して驚いてしまった。

実は、浅田選手のファンになったのは、このフリーの演技を見てからなのだ。

心が動かされる演技だった。

二つ目は、2008-2009年のシーズンのフリープログラム「仮面舞踏会」

このシーズンのすべての仮面舞踏会の演技にワクワクした。

ジャッジの目の前で飛ぶ、トリプルアクセルの迫力に驚いた。

さらに、終盤のステップは、フィギュアスケートに芸術性を追求するタチアナ・タラソワの執念がつまった秀逸の出来である。

そして、女子には厳しすぎるほどの難しさだ。

「仮面舞踏会」は、フィギュアスケートの理想である、技術と芸術の融合を象徴するプログラムになっている。

タチアナ・タラソワは、名匠と呼ばれる自身のフィギュアスケート人生の集大成として、浅田真央選手のプログラムを振りつけていると思う。

10代だった浅田選手には、重い試練ではあるが、タラソワほどの巨匠に見込まれた逸材ということなのだ。

その後の、プログラム「ラフマニノフ前奏曲 鐘」、「チャイコフスキー白鳥の湖」「ラフマニノフピアノ協奏曲第二番」を見ても、自国ロシアの巨匠の作品を、日本人である浅田真央選手に託したことになる。

自国愛の強いロシア人にとっては、異例のことだ。

自国の巨匠の作品を、他国のプリマに託したのだから。

ローリー・ニコルの軽やかで明るい振り付けのほうが浅田選手に合っているという人も多い。私も、「愛の夢」や「蝶々夫人」は大好きなプログラムである。

それでも、タラソワの思いのこもった難しいプログラムを、必死にこなす浅田選手の姿に心を打たれた。

フィギュアスケートに、ここまで必死に打ち込めるということの凄さを感じると同時に、うらやましくさえ思えた。

必死に打ち込むことができる何かがあるということは、うらやましいことだ。

そう感じた人は、私だけではないと思う。

三つ目は、やはりこれ!ソチオリンピックのフリー「ピアノ協奏曲第二番」

タラソワが、自国開催のオリンピックにもかかわらず、浅田真央選手に振り付けたプログラム。

「もう振り付けはしない」と言っているようなので、おそらく名匠タチアナ・タラソワ最後のプログラムになるだろう。

ソチオリンピックショートプログラムは、ジャンプの失敗により16位という結果。

「フリーに向けてどうしますか?」という記者の質問に、「なにもわからないです」

と、放心状態になっていて、見ている私たちも同じく放心状態。

このシーズンは、グランプリファイナルで優勝し、調子が良く、金メダル候補だっただけに、ショートの失敗は、本当に痛手だった。

何しろ本人が一番つらいに決まっている。

プレッシャー、失望、自信喪失、私たちには経験したことのないほどの、負の感情が渦巻いていたと思う。

もし、自分だったらと思うと、想像するだけで心が折れる

体調が悪いと言って、フリーを棄権してもおかしくない状況だ。

そういった状況を考えてしまい、浅田選手がフリーの演技にコールされただけで、涙があふれてきた。

今、ここに立つことがどんなにツラいだろうかと想像した。

彼女が今まで受けてきた人々の期待とプレッシャーの重みと苦しみを、少し理解できるような気がした。

そして、勝手な期待を背負わせてしまったことを申し訳なく思った。

16位という順位はまだしも、ショートプログラムの点数が低すぎて、パーフェクトに演技したとしても、メダルに届かないことは明白だった。

金メダルを目指してきた浅田選手にとって、メダルにすら手が届かないのに、演技をしなければいけない。

そんな状況下で、あの完璧なフリープログラムを演じたという奇跡。

浅田真央選手は、私たちに、奇跡を見せてくれたと思っている。

あの状況で、素晴らしい演技ができたということは、日々本当に、真摯に努力してきたということなのだ。

困難な状況下でも、自分の出来る最大限のことをやりつくす、というアスリートとしての真の姿を私たちに見せてくれた。

ソチのフリーが終わり、涙が込み上げた姿、彼女が経験してきたその苦しみを忘れない。

そして、涙を必死に飲み込み、笑顔で観客に挨拶した、彼女の心の強さを忘れない。

真のアスリートであり、真の芸術家であり、真のフィギュアスケーターであった浅田真央選手。

2005年にシニアデビューしてから、11年。

本当に長い年月のあいだ、私たちに夢と希望を与えてくださり、ありがとうございました。

浅田真央選手に出会えて、幸せな11年を過ごすことができました

心の底から感謝の気持ちを伝えたいと思います。

第二の人生、GO MAO!